いけずのいけす

すっきり整った暮らしを夢想するアラサーゆるゆるオフィスレディです。

無人島でのたいらかな暮らし

無人島暮らしを始めた。
言うまでもなく、Nintendo Switchの「あつまれどうぶつの森」を買ったのである。


どうぶつの森シリーズは、2001年発売のNINTENDO64どうぶつの森」からずっと追い続けている唯一のゲームで、もう20年の付き合いになる。
初代、森+、e+、おい森街森とび森と新作が出るたびに欠かさず買っては(ハッピーホームデザイナーだけは妹がやっていたのをちょっと触っただけだが)、どれもそこそこ時間をかけてプレイし、それぞれに思い出がある。それだけに、今作を買うのには迷いがあった。


前作「とびだせどうぶつの森」の発売は2012年。当時は気ままな大学生ライフをエンジョイしており、やりこむ時間は十分にあったし、日々顔を合わせる友人の中にもとび森プレイヤーが居たので、通信や森トークに花を咲かせる楽しみがあった。
強烈に片想いしていたイケメンがとび森プレイヤーと知ってそいつの家を住宅展示場で探し回り、見つけるや否やお気に入り登録して宝物のように持ち続けた、そんな困った青春の1ページにもなっている。

一方、そこから8年経った私は一応社会人として働いていて、平日にゲームに割ける時間はそう多くない。趣味や嗜好も、大枠は変わらないにしろ少しは大人になっているのを自分でも感じている。この状態であつ森を買ったとしたらどうなるのだろう。
どハマりして寝食を惜しんでプレイするようになるというのも恐ろしいが(一応働いているので)、それ以上に恐れていたのが「思ったよりハマらない」ことだった。あんなに好きだったものに、かつてより魅力を感じなくなっている自分に気づいてしまうときの淋しさを想像すると、むしろ買わない方がいいのではないかと思ったのだ。


しかし、巷間を賑わすコロナウイルス、その対策として打ち出された週末の外出自粛が私に購入を決意させた。


結果としては、「た〜〜〜のし〜〜〜〜〜〜〜!!!」のひと言だった。
まだプレイ3日目だが、8年ぶりの完全新作に相応しいボリューム満点な仕上がりになっていると早くも感じている。ボリューム満点、すなわちゲームの要素がかなり増えているということはややもすればプレイのハードルになってしまうが、本作ではそれはほとんど感じず、ゲームの基本的な面白さやまったり感はずっと変わっていないのもすごい。Switchというハードの実力か、グラフィックにも大変見応えがあり、特に夕暮れどきの空の空気感、水面のきらめきは、ずっと見ていたくなるような美しさだ。金土日はほぼあつ森で溶けた。


明日になれば博物館が完成しているし、家の増築も終わっているはずだ。今日より明日はもっとよくなる、そういう気持ちで過ごせる日々のなんと素晴らしいことか。焦らずまったり進めていきたいと思う。

Jetstarことはじめ

2泊3日で四国に旅行に行った。

これがもう朝から晩までほんとうに楽しくて、翌日仕事終わりに「昨日の一日はあんなに楽しくて、そういう素晴らしい一日を過ごすことだって出来るのに、今日一日は面白いことなんにもなくて、わたしの仕事はこんなんでよいのだろうか」とじっとりと暗い気分になったほどである。


それはさておき、行きはJetstarというLCCを使った。国内線でLCCを使うのは初めてだったが、これがまたまあ大変なのであった。


まずはターミナルがとにかく遠い。
成田空港ということでただでさえ都心から遠いのに、LCC路線は「悪名高き」第3ターミナルに追いやられているので、駅(最寄りは空港第2ビル駅。第3ターミナル専用駅は存在しない)から10分は歩くことになる。
ターミナル間の距離があること自体は大きな空港では珍しくないが、第2ー第3ターミナル間は基本的には徒歩移動、しかも仮設通路のような半屋外を歩かされるのがつらいところだ。格安航空会社を使う奴はこの通路でも歩いてろという、支払額に応じた明確な区別をびしびし感じる。3月の初め、朝晩はまだまだ冷える季節の朝6時半にこの通路を歩くのは堪えるものがあった。


諸々の締め切り時間も早い。
チェックインは出発30分前まで、搭乗口には25分前(搭乗締め切りは15分前)までに行かねばならないのだが、この締め切りがJetstarはかなり厳格で、1分の遅れも許されないというのがネット上での下馬評だ。真偽のほどを身をもって確かめるというほど酔狂でもないので、必然的に時間にかなり余裕をもって行動するはめになる。チェックインをオンラインで済ませていなければ、更に前倒しせざるを得なかっただろう。
ちなみに、ANAは保安検査場を20分前までに通過し、搭乗口に10分前までに居たら良い。


駄目押しで付け加えるなら、手荷物の重量制限も厳しい。これはお金を払えば追加できるが、そうでなければ一人7kgまでと決まっている。
無論フルサービスキャリアでも手荷物の重量は決まっているが、実際に測られることなどまずないので油断していたところ、搭乗口付近で待機しているときに友人がちょいちょいと呼び出されて実測の憂き目にあった。しかもこれが重量オーバーしていたのだから大変である。
幸い、同じグループ内であれば重量をシェア出来るので何とかなったが、これで何とかならなかった場合は荷物を捨てるか数千円払って受託手荷物とするかのどちらかを選ばなければならない。格安航空券で浮いた分が全て吹き飛ぶ可能性すらある出費である。


LCCは確かに安いのだが、価格の代わりに失われているものは思った以上に多い。数万円単位で変わるならともかく、数千円の違いであれば断然JALANAを選ぶべきだなと、身をもって感じた私だった。

婚姻届提出に寄せて

転居を機に婚姻届を出した。結婚式から2年以上、事実婚状態のまま引っ張ってきたが、遂に年貢の納め時というわけだ。
婚姻届提出に伴い私には苗字変更の義務が生じたが、これが本当に苦痛で、今なお全くポジティブに受け止められていないことを記しておく。


まず事務的な話で言えば、名前を登録しているあらゆるものを変更しなければいけない(まだほとんどしていない)手間と労力を思うと気が遠くなる。今時は住所変更くらいはネットで手続きできることもあるが、名前となるといきおい重要度が増すらしく、手続きの煩雑度合いがぐっと上がる。「名前を変えないといけないのはお年玉をためていた銀行口座くらいかしら」みたいな妻が多ければそう問題ないかもしれないが(専業主婦が多かった時代はそうだったのだろうか)、今は令和なので話が全く異なる。運転免許証、複数の銀行口座、複数のクレジットカード、その口座やクレジットカードに紐付いたこれまた複数の支払い、証券口座、携帯電話、パスポート、保険、エトセトラ、エトセトラ。これをひとつひとつ変えていく手間を、夫婦の「片方のみ」が押し付けられるのは不条理である。


より精神的な話で言えば、長年連れそった氏名を強制的に変更させられることは想像以上に私の気持ちを沈ませた。苗字と名前がセットになった一連の「氏名」でこれまで30年近く生きてきて、苗字まで含めての「わたし」だったのに、その半分を法制度によって奪われるというのは非常に理不尽なものに思われた。個人のアイデンティティを軽視しているとしか思えない。いや実際、この国はそういう国だけれども。


日本に昔からある「諱」的考えでは、名前というのは自分自身と深く結びついたとても重要なもので、名を知られることは魂を支配されることと同義であった。ということは、名を変えさせられるということは、魂を変えさせられるのと同義と考えられる。

ここで、個人の人権が尊重される国であれば「だから制度で改姓を強要すべきでない」となるわけだが、ジェンダーギャップ著しく家父長制が前提の我が邦では「だからこそ婚姻に伴い改姓する必要がある」と考えているところが救えない。婚姻とは家族になること、だから自分だけじゃなくて、家族の繋がりを大事にしないといけないよね、自分も変わらないといけないよね、だから名前も変えようね、女の人がね、というわけだ。もちろん、こう言ったことを表立って言われる機会は減っていると思うが、制度がそうなっているのだから言われているも同然だ。改姓による夫の姓への従属が強制されれば、それは意識的にしろ無意識的にしろ、精神的な従属に繋がっていく。何故なら、名前とは自分そのものだからだ。

婚姻による改姓義務は、名前の重要性を分かっていないのではなくて、分かっているからこそ、「伝統的な日本の家族のあり方(笑)」を維持するための重要ツールとして課されているものなのである。


選択的夫婦別姓に関する議論を見ていても、導入に反対する人の意見は別姓による「家族」への精神的な悪影響を懸念しているものが多い。曰く、家族の繋がりが薄れるとか、子供が家族への帰属感を持てないとか。改姓による女性のキャリアの分断のような、時代に合わない具体的な弊害が出ているにも関わらず、こんな精神論にしがみついているところには恐れ入る。私はこの国の文化や気候が好きだし、どちらかといえば愛国心が強い方だと思って育ってきたが、こういった事実に直面するにつれ、この国が嫌いになっていく。好きだったものを嫌いになっていくというのは、なんとも悲しいものなのだが、それでも嫌悪感は拭えない。

ちなみに子供への悪影響について、私の親も事実婚なので小さいときに自分と母との苗字の不一致について疑問を投げかけたことがあるように思うが、母は「そういうものなのよ」と言い、私も「そういうものなのね」と納得して、それ以上でも以下でもなかった。ご飯を作ってくれて、遊びに連れて行ってくれて、お話を聞いてくれて、そんな母との生活のなかで「でも苗字が違うんだよな」と引っかかりを覚えることなんてあるだろうか?苗字が同じことよりも、普段可愛がってくれる方が数億倍大事である。


また、私のしんどさを加速させるのが、普段話しているときはごくごく普通で、男尊女卑的・家父長制的な考えが強いとも思われない同僚なんかが、これまたごく当たり前のように「苗字は何になったの?」と聞いてくることである。この国では結婚したら女が苗字を変えるのが当然で、それ以外の選択肢など無いに等しいのだと痛感させられるし、それが特別偏った思想というわけでもなく「普通の人」の共通感覚なんだと分かるからだ。あまねく普通の人の意識を変えるのは、急進派を黙らせるよりもよっぽど難しいだろう。


その点、役所の人はさすがによく配慮してくるというか、手続きについて聞いたときも「姓はどちらに揃えられますか」と聞いてきてくれた。選択的夫婦別姓導入までの道のりははるか長いと思うが、せめて人々の意識がこういうふうに変わってきてほしい。

晴れた冬の陽、薫る紅茶

マンダリンオリエンタルのオリエンタルラウンジで、アフタヌーンティーを嗜んだ。

天気は冬の東京らしい快晴で、有給を取ったこともあってこのうえもなく清々しい。
38階のラウンジに着き、案内された窓際の席からは、青い空のもと陽光を受けて光る街並みが遠くまで見渡せた。本題に入る前から、「来て良かった」という気持ちを噛み締める。


さて、メニュー構成は
・ノンアルコールカクテル
・セイボリー
・スコーン
・プティフール
というスタンダードなもの。


どこのアフタヌーンティーに行くかを決めるにあたり、私がまず気にするのは「飲み物は多種類かつフリーフローか?」である。気取ってフリーフローとか言ってるが、要は飲み放題か否かだ。
アフタヌーンティーにおいてはあのシンボリックな三段トレーに載って、味も食感も違う食べ物がこまごまと多種類出てくるので、お口のリセットのためにたっぷりの飲み物は欠かせないのだが、お店によっては「最初に選んだ1種がおかわり自由」とか、そもそも「ポット1回分のみ」とかだったりする。おかわり自由かつ飲み物の種類を選べるかという条件のチェックは欠かせない。
その点マンダリンは完璧で、おかわり自由かつ飲み物の種類を選べるうえに、ホットティーがポットではなくカップでサーブされる。ポットサーブだと3杯くらい飲まないと次の茶葉を試せないが、カップならその心配は無用である。


更にもう一点素晴らしいのは、スコーンがあとからやってくるところ。
ほとんどのお店では、食べ物は最初から全てまとめてティースタンドで来ると思うが、それだとセイボリーをつまんでいる間に焼き菓子が冷めており、1番美味しい状態をみすみす逃していることになる。その点、マンダリンはスタンドが来てしばらく経ってから、スコーンが別でサーブされるのだ(代わりにスタンド中段にはパウンドケーキなどが載っている)。温かいスコーンに載せて、少しとろけたクロテッドクリームの美味しさは格別だ。
なかなか上品なサイズ感なのですぐに食べ終わってしまうのだが、実はおかわりできる。そこも最高である。


寛いだ雰囲気の中、美味しいお菓子とお料理、薫り高い紅茶を2時間存分に楽しんで、お値段なんと5,100円(一休価格)というのは神のようなコスパだと思う。東京には、会社を休んででも行くべきところが山ほどあるが、ここもそのひとつであることは間違いない。

我らいずこに住むべきか

来週、引越すことにした。京葉線の奥地から、今度は一気に山手線の輪の中だ。

今の部屋は畳もあってお気に入りだし、家賃は安いし、周辺環境も良いし、何より駅の近くに大変美味しいケーキ屋があって、ただ一つ東京が遠いこと以外は目立った不満はなかったのだが、結果的にはその一つが致命的であった。


経路検索すると、駅から駅までは乗り換え無し・快速電車で30分強。それだけ見るとまぁアリかなと思うのだが、これを毎日使っていると当初考えていなかったマイナスポイントが見えてくる。

⚪︎通勤時間帯はほとんどが各駅停車で、なんなら通過待ちもするので40分以上かかるとか

⚪︎最寄駅では定刻通りでも、途中でアクシデントがあり遅延する確率が高いとか

⚪︎電車の本数がそんなに多くないため、駅で発車まで15分待ったり、また目的地にやたら早く着くのに乗らざるを得ないとか

結局、東京駅までは1時間、その他都心部には1時間半かかるというのが体感で、その不便さに耐えられなかったのである。


共働きの世帯は特に、家賃と家の広さを犠牲にしてでも職場に近いところに住むべきだと今なら自信を持って言える。

投資判断には定量化と直観が大事だというので、投資の効果について定量化も試みよう。例えば、職場の近くと郊外で通勤時間が30分、家賃が4万違ったとする。2人暮らしなら1人あたりの負担額は2万円なので、月に20日働くとして1日1000円で往復1時間の自由時間を買っていることになる。すなわち、1000円の投資で1時間手に入れている。

ここで、普段の給与を時給換算したら1200円だったとすると、自分の1時間には1200円分の価値があるのだと言える。そんな1時間を1000円で手に入れられるのだから、お買い得というわけだ。


千葉の団地と23区のマンション、平米単価はおおよそ2倍違うが、家賃には時間の値段も込みだと考えると仕方ない。

時間への投資はくれぐれも惜しんではいけないのだと、噛み締めた千葉暮らしであった。

美と時間を金で買う

稼いだ金銭の使途を「消費」「浪費」「投資」に分けよという教えは、お金の使い方をレクチャーする本でよく出てくる。
思えば浪費を重ねてきた人生であったことよ、諦めの気持ちすらある中で、これは人生最良の投資であったと確信しているのは全身脱毛だ。


トータルで何十万かけたのか数えちゃいないが、365日毎晩やっていたシェービングが不要になり、選べる服の選択肢がぐっと増え、プール温泉恐るゝに足らずという心持ちになった、この効用がいかに大きいものであったことか。確実な時間の節約になったうえに、美しさの獲得による精神的な満足ももたらしたこの投資、費用対効果で言えば明らかに効果が費用を上回っていたと自信を持って言える。

 

限りある資金を何に投じるべきかには色々意見があり、その時は投資のつもりだったが結果的には浪費だったというパターンもあるので、適切な投資先を選ぶのは難しい。

個人的には、その投資によって「①主たる効用と②時短」の二つがもたらされるものだと、後から考えても満足のいく投資となる確率が高いと思う。

それは例えば
脱毛(肌の美しさと服装選びの自由と時短)だったし
ルンバ(常に清潔感のある部屋と諍いの軽減と時短)だったり
ふぁんじゅ(手間なく決まる襟元と着崩れの懸念払拭と時短)だったりする。

投資するきっかけは主たる効用の方だと思うが、加えて時間が買えるというのは投資前の想像よりもずっと効用が大きい。ちょっと仕事が忙しい今日この頃、それをしみじみ思うのである。


なお、これまでで一番やらかしたなと思った浪費はお召の着物である。15万くらいしたと思う。
一生着られそうな品ではあるが、買って5年くらい経ってもまだ一度しか着ていないので、単純計算だと死ぬまでにあと10回も着ないことになる。着物界隈の値段は天井知らずなので、勉強代と考えればこんなものだったかもしれないが。

入居のときより身軽な私

賃貸住まいの秘訣は、物を増やさないことに尽きる。物が増えると、賃貸の最大の利点である身軽さが損なわれてしまうからだ。経済状況や就労状況が変化したのに、引っ越し作業に手間がかかるから転居を躊躇うようではいけないだろう。

 

その家に入居したときよりも、退去時には荷物が減っている状態、これが理想だと思う。原理的には、引っ越しを繰り返すたびに引っ越しの手間が減っていくはずだ。

実際はなかなかそうはいかないのだが、心がけていることが大事だと思っている。


実際は、なかなかそうはいかないのだが。


千葉に引っ越して1年が経った。通勤に1時間かかる生活にいい加減疲れを感じているため、引っ越し貧乏という言葉を知ってはいるものの、またもや引っ越しを検討している今日この頃、家の中を見渡してみると入居当初よりじわっと物が増えているのが現実だ。次の物件の内見日は1日4日。それまでに少しでも物を減らすのが、2020年最初のミッションである。