いけずのいけす

すっきり整った暮らしを夢想するアラサーゆるゆるオフィスレディです。

インビジブルワイヤレスワールド

飛行機に乗ったときふいに斜め後ろの席を見ると、並んだ3人全員が有線イヤホンを使って映像を視聴していた。有線イヤホンで人と機械が物理的に「接続されている」様子は、SF小説の場面を思わせる。精神はVR世界にあり、現実世界の体は機械の中で眠っている、そんな場面だ。

それにしても有線イヤホンの使用者を見なくなった。ワイヤレスイヤホンがあまりに便利だからだ。かくいう私も昨年ワイヤレスデビューして便利さに慄き、その後端末間でのペアリング切り替えが面倒だという理由でもう1つ買った。家で家事をしながら曲を聞いたりできるし、ダンスの練習時にも使えるし、ウェブ会議中にコーヒーを淹れに行ったりできるし、公私ともに欠かせないアイテムの一つになっている。充電が必要なデバイスが増えるのが嫌で手を出していなかったのだが、思っていたよりも充電がもつので、大して不便は感じてない。何でも食わず嫌いせずまずは試してみることの重要性を、改めて感じた次第である。

ワイヤレスイヤホン然りwi-fi然り、目に見える物理的なコードは日々排除されていっているが、代わりに無数の電波が空間中を行き交っているのが現代社会だ。紫外線が視える生物が居るように、そのような電波が「視える」生物が居るとしたら、網の目のように張り巡らされたコードにさぞ辟易していることだろう。煩わしいことこの上ないだろうが、一度体験してみたい。

https://www.jabra.jp/bluetooth-headsets/jabra-elite-7-pro

デジタルデトックスしたところで

生活を送るうえでは空白の時間というのがしばしばある。ATMに並んでいるあいだ、飲食店で料理が来るまでのあいだ、エレベーターに乗っているあいだのような。何をするでもなく、ぼんやりとしている時間。

ただ、今はそんな数十秒のあいだにすら、スマホを見ている人が多いなあと思う。スマホは人類から空白の時間を奪ったのだ。

5月の連休、青森県のランプの宿 青荷温泉というところに行った。名前の通り明かりがランプしかないところで、部屋には電気機器やコンセントが無く、山奥すぎて電波も来ない。デジタルデトックスせざるを得ない環境にある温泉宿で、前から行ってみたかった場所だった。

夕食を食べたあと、すっかり暗くなったなかを4ヶ所ある温泉の一つに向かった。扉を開けてすぐまず脱衣所の暗さに驚き、浴室にシャワーもカランも無いのに驚き、仕方ないからかけ湯をして湯船に浸かって、その安らぎに驚いた。

湯気の向こうでランプが仄暗く空間を照らしているが、なにぶん暗いので全てが詳らかでなく、余計な視覚情報が削ぎ落とされて、ただ心地よさだけがある感じ。

ちょうどほかに人が居なかったこともあり、凪のように穏やかな入浴を堪能できた。

部屋に戻る道は暗く、戻っても部屋の中も同じくらい暗く、そんな暗い中で活動するのは難しく、なんのことはない、夜は本来休むべき時間なのだなと素直に思わされて、身体も自然と休息モードに入る。部屋の裏手を流れる渓流の水音を聞きながらぼんやりとしていると、時間がゆっくりと過ぎていくのを全身で味わえる。

温泉には朝も入ったが、ランプの明かりは同じなのに空間は晴れ晴れと明るく、太陽光の偉大さをしみじみ感じて、夜とはまた違う良さがあった。

そんな調子でわたしはこの宿を非常に気に入った一方で、一緒に行った友人2人は退屈だったようだ。普通ならなんとなくスマホをいじっている間に時間はどんどん流れていくが、なにぶん電波が来ない。それでもマップを開いてみたり、電子書籍を読んでみたりしていたようだが、やれることに限界があると悟ると睡眠に移行していた。何をしたらいいか分からない、という感じだった。

スマホは人類から空白の時間を奪った。それだけでなく、空白の時間を過ごす力をも奪ったのだ。

防弾ジレが流行る日は来るか

近所のスーパーの前を通りかかると、駐車場誘導員のおじいさんたちが談笑していた。曰く「防弾チョッキを着ていけば大丈夫」らしい。なかなか日常生きていて使わないフレーズに、誘導員の仕事の苛烈さを思った。実際、何の話をしていたんだ?

続けて思ったのは、チョッキという言葉はほぼ絶滅したと感じるのに、防弾といえばチョッキだということだ。防弾ベストとか、防弾ジレとはなかなか言わない。その語、もしくはその物自体はすっかり廃れたけれど、日常使われる特定の連語の中には生き残っている言葉というのは、探せば他にもあるのだろう。下駄箱や筆箱もその一種だと言えそうだ。最早下駄を履いている人はほぼ居ないので、本当なら「靴箱」と呼ぶのが正しいが、「下駄箱」という連語になったことで、実態とは異なっていても「下駄」なる言葉は使われ続ける。

言葉は生き物であり日々移り変わっているが、一方で一度広まった言葉は、その語の原義と現実で指すものに乖離が生じていたとしても、なかなか別の語に置き換わらない。矛盾を解消するためにより正確に言えば、言葉のなかでも目に見えない「意味」は流動的だが、視覚化される「表記」は固定性がある、ということになるだろう。

スマートフォンで写真を撮って送る」ことを指して「写メ送る」と言ってしまうのもそれだ。送るのに使っているサービスはもちろん写メールじゃないし、それどころかメールですらない(大抵LINEだ)。それでも、上述の「写メ」と同じ内容を指していて、写メに代わる単語を私は持たないので、違うんだよなあと思いつつ使い続けている。

今の中学生や高校生に聞けば、あっさりと違う語が返ってくるのかもしれない。仮にそれが存在したとして、全く自分の耳に入ってきていないあたりに、いかに中高生が遠い存在になったかを感じるのだった。

非日常のためのものもの

年末年始に実家に帰ると、年が明けた元日の朝にはお正月料理が出てくる。

美味しいのか判断に迷う縁起物が色々入ったおせち…ではなくて、椀物を主役に副菜がいくつか、といった構成で、今年の献立は、お雑煮、黒豆、栗きんとん、海老あんかけ、大根とサーモンのなます、それと日本酒。お雑煮は美しい塗りのお椀に、ほかの副菜たちもそれぞれ小さなお皿に少しずつ盛られ、それらが行儀良く折敷の上に並ぶさまは、ハレの日に相応しい華やかさがあり、新年の清々しさに満ちている。

これが自分の家だとどうだろう、と思った。食器のレパートリーはお世辞にも多くない。お雑煮は普段通り木の汁椀に入り、副菜はちょうどいい小皿が足りないので、いくつかまとめて1皿に盛ることになるだろう。おちょこも無いため、日本酒はDURALEXのピカルディで飲む。折敷が無いのは言うまでもないので、全てテーブルに直置きだ。

お祝いの気持ちさえあればそれで十分、という見方がある一方で、やはり特別な器は気分を高揚させるし、ワンプレート和食は味気ない。オールマイティ至上主義から少し目線を変えて、綺麗な小鉢でもひとつふたつ買ってみようかと思ったお正月だった。

1月のどこかの水曜日、首都圏で4年ぶりにまとまった雪が降った日の帰り道、住宅街の小道を歩いていると家の前の雪かきをしている人が居て、その人が使っていた道具がちゃんと雪かき用のスコップだったときにも、いたく感心したものだ。数年に一度出番があるかも分からない物がきちんと所持されていて、然るべきタイミングで使われていることに。

「この一年を振り返って一度も使っていない物?今後もまず使いません。捨てましょう!」

というのが片付けのセオリーだし、今後もその思想を変えるつもりはないが、それによって失われる生活のあや、非日常のためのささやかな豊かさも、確かにあるのだ。

服は熟考して買いたいのだが

喪服というのは急に必要になるものだ。

4年前に祖母が急逝したときに慌てて調達したそれは、ここ数年で立て続けに祖父母が亡くなったことで、定期的に出番があったのだが、一通り区切りがついてしばらくはクローゼットで眠ることになりそうだった。

なるべく服の数を減らしたい自分としては、1年に一度着るか着ないかという使用頻度の低い服、しかも着ても愉快な気持ちにならない服を持っておくのは、無駄なことに思えて仕方なかった。一度着たあと、次にいつ着るか予測ができないので、結果毎回クリーニングに出さないといけないのも煩わしい。
だからといって喪服を持たないという選択肢もないだろう。然るべきときには、然るべき格好をしなければならない。
ただ、家のクローゼット内は夏季の湿度がやたらと高く、出し入れしない服はあっさりとカビるので、死蔵している服があるという状況は常にそれなりに気がかりなのだった。

それをついに決心して買い替えたのが先日のことだ。
ノーカラージャケットと、トップスと、膝下丈のマーメイドスカートという3点セットに切り替えた。服屋での扱いとしてはブラックフォーマル(要は喪服)なのだが、いずれも飾りブレードなどの装飾のないごくシンプルなデザインであり、単体なら普段も使えそう。というかもう使っており、オフィスに着て行っているし、私服としても登場済で、もはや「使い勝手がいい」と評してもいいくらいである。しかも洗濯機で洗えるので、手入れの手間も削減された。良いことづくめだ。

それにしても、最初から考えて買っておけば、買い替える必要などなかったものを。
「いつか使うから」という理由で今すぐ使わないものを買うのは馬鹿げたことだ、必要になったらそのとき買えばよい、というのがわたしの基本思想だが、こと喪服は「必要性が生じる」タイミングと「実際に必要」なタイミングにほとんど間がないので、必要性が生じてからは吟味している余裕がない。こればっかりは、必要に迫られる前に買っておくべきものだったな、と思う。

なお、買い替えによりクローゼットから取り出された旧喪服はメルカリに出すつもりで、商品写真を撮りながらコンディションをチェックしていたらカビていた。いざ着るときになってカビを発見する、という悲劇が生じる前に買い替えて良かったと思いつつ、そっと処分したのだった。

 
 

ざんしんなめいがのおもいで

春先の話で恐縮だが、SOMPO美術館で開催していたモンドリアン展に行ってきた。

特定の人物の名を冠した美術展であっても、その人物の作品が思いのほか少なくてがっかり、というのは展覧会でよくあることだが(ビッグネームだと特にその傾向が強い)、本展は最初から最後までかなりの割合をモンドリアン作品が占めており、タイトルに偽り無しの感があった。

そしてこれまたよくあることだが、特徴的な絵を描く画家であっても、初期の頃は普通の絵を描いており、かつそれが普通に上手いのに改めて感心したりする。モンドリアンもその例に洩れず、初期作品の風景画は、モチーフといい描き方といいごく一般的なものであった。何なら別に、取り立てて上手いと感じるほどでもない。

それが、画風が行ったり来たりする時期を挟んで数年のうちにどんどん変化していき、最終的にはあの有名なコンポジションに行き着くのを、時系列順に追っていける展示構成になっている。その変化はかなり劇的で、これをもしモンドリアンの友人として近くで見ていたらめちゃくちゃ心配になっただろうな…と、見も知らぬ異国の人間に思いを馳せてしまった。


モンドリアンという画家を初めて知ったのは、はるか昔小学生の頃、どハマりしていたどうぶつの森(64)で「ざんしんなめいが」に出会った時だ。どうぶつの森内の「めいが」と呼ばれる家具は、いずれも実在の有名絵画をモチーフにしているが、明らかに他の絵画とは一線を画すその絵は私の心を惹きつけた。

それが「黄、青、赤のコンポジション」と呼ばれる作品で、作者がモンドリアンという人物であることは、父親に教えてもらったのだったと思う。

出会いから20年、遂にモンドリアン作品の前に立つことができたのは、なんとも感慨深いものだった。

冬のベランダを泳ぐ鯉

家の近所に、洗濯物を竿に通して干している家があった。

トップスは竿が両腕を貫く形で1本で、ボトムは片足に1本ずつ通して計2本の竿で干されていて、干す作業はハンガーを使うよりも大変そうだと思った。何かこだわりがあってそうしているのだろうか。真横になったボトムは、いくつも並んでいると鯉のぼりが連なって泳いでいるようで面白い。


こういう干し方をすると、竿に対し洗濯物が平行になるので、ずらり干されている物の形がよく分かる。一方ハンガーを使うと竿に対し洗濯物は垂直に並ぶので、竿を横から眺めても何が干されているのか判断がつかない。


「洗濯物のイラスト」を考えた時、頭に思い浮かぶのは「物干し竿(orロープ)が画面に水平にあり、そこにTシャツやスカートや靴下が下がっている図」ではなかろうか。そんなふうに干されているものの形がはっきり分かるということは、現実に即して考えれば、洗濯物は竿に通されている、もしくはロープに直接洗濯バサミで止められているのだろう。
そう思って「洗濯物 イラスト」とサーチしたところ、もちろん上記のような表現がなされたイラストもある一方で、多数を占めるのは「ハンガーを使っているが、洗濯物がこちらを向いている」というものだった(文字だけだとやや分かりづらいが、検索してもらえればすぐ分かると思う)。現実に干してもそうはならないのは言うまでも無い。何気ないイラストだが、その中には
・物干し竿に平行な視点
・ハンガーに平行な視点(物干し竿に対しては垂直な視点)
の2つがあり、それぞれの物の特性が最もよく表れる視点で見た物の姿を組み合わせた表現になっているのだ。


さて、古代エジプト絵画/壁画はその特徴的な描写方法が広く知られている。

 

例えば人間を描く時、顔は横向きだが目は正面、上半身は正面、下半身は横向きというように、異なる視点を組み合わせた描写がなされる。これは壁画が神に捧げられた物であるため、神々に正しく考えが伝わるように、部位ごとにその特徴を最もよく表す視点から事物を描いているのだという。


洗濯物のイラストも、特徴をよく表す視点を組み合わせているところは同じだ。3000年前も今も、3次元空間をいかに2次元表現に落とし込むかを考えたとき、辿り着く場所には共通性がある。古代エジプト人の壁画職人に現代の洗濯物風景を見せてみて、壁画ではどんな風に表現するかを聞いてみたい。